宿毛片島港を0700時発の市営旅客船に0644時乗船する。30人程の乗客を乗せて出発します。
- 沖に出ると北からの風で少し波があるが時化と言うほどではない。沖に目指す「沖の島」の「妹背山」が丸く見えてくる。
0746時、鵜来島港着、接岸、下船、乗船はあっと言う間に完了、即離岸、なんと言う早業である事か
0812時、弘瀬港着、ここでも早業で即出港する。登って降りて来るのはこの港である。
0828時、母島港着
ここの早技は運搬カゴに入れた軽自動車の素早いクレーン作業早い早い。
港の案内図の北の母島港から「妹背山」を経由して南の弘瀬港に下る
港の案内板に従って集落の石段を上がっていると、下から声が掛かる「こっちの石段から神社の石段を上がれば上の道路だ」
ありがとうございます。
神社の石段を上がると港の上の道路に合流する
上がり着いた道路から母島港とその先の群青の海が美しい、がこの先3時間後弘瀬港の上に至るまで展望が皆無とは知る由もない。
沖の島小中学校、沖の島保育園の先の道路を上がった地点が登山口。案内板が建っている。
常緑樹の落ち葉が厚く積もって少し暗い踏み跡をイノシシの掘り返しで足を捻らぬよう用心して登り上がる。
登山道の脇には鉄釜が打ち捨てられ辺りには色濃く暮らしの跡が残る。その後も石組された狭い段々の畑跡が至る所にある。
林を登って行くと林道と交差し、
更に上がると再度林道と交差する、頂上稜線まで林道が上がっている。
その頂上稜線直下に廃屋がある、さらにその周囲が見ると数軒の屋敷跡も散見される。島とは言え山頂まで人が暮らす里山であったのかもしれない。
その先に山伏神社の「スダジイ」樹齢500年が古色蒼然大きな洞を抱えて斜めに傾いで立っている。人の暮らしとは切り離せない山のようである
山頂下で林道と合流すると男1人女3人の年配のパーティーと出会う。1人旅と思っていたのでびっくりしたが、相手の方が余程びっくりしたようで「何処から・・・」とお尋ねがある
この合流地点は、母島コースと弘瀬コースの合流地点である
「妹背山」山頂の展望台は高い樹林を遥かに超えるので展望は最高だろう。しかし老朽化で上がれない。ガックシ
展望台の足元に例の一等三角点の石柱が埋まっており、標高403.8mと記されいる標識がある、展望が効かないのは至極残念である
石組の「砲台跡」がある。いつの時代の物なのか説明はないが、サムライの時代だろうか?
林道と弘瀬コースの分岐点を見過ごして林道を10分下っしまい引き返す、油断は禁物です。
林道から分岐して12分下ると「仏ヶ丘」の案内板がある。
石仏が120体祀られているらしい、最初は33体だったものが島の人の祈願でこれ程の数になっていると言う。
さらに5分下ると「三浦一族の墓」、鎌倉殿に追われて1205年沖の島に上礁した初めての定住者で御先祖様らしい
そのすぐ先でコースは分岐するも弘瀬へは下り一方
だが分岐点から先は崩れた石組と石段、ガレた荒れた道になる。用心して下るしかない。
その荒れた石段の両側には、幅が2mある無しの狭い畑が段々に重なる。今は樹林ながら昔々は耕して天に至るまさにその通りの景色が展開していたのだろう。
下りに下って1149時、弘瀬港が眼下に漸く見える、3時間ぶりの展望はとても新鮮です
イノシシ避けの扉を開けて最上部の人家に下る
それはそれは立派な石垣の上ギリギリに家が建っている。それでいて安定感があるから土木屋としては嬉しい
その石垣に「妹背山」の案内板を掛けている、否が応でも目に入る
そもそも平地がないから集落全体が石垣で出来ているの
である1212時弘瀬港到着
島のてっぺんまで耕した暮らしの跡が未だに生々しく残る。ここまで耕した跡と暮らしぶりを見たのは初めてだった。高知県の山の本ではこの島のみが紹介されている
おはようございます。
返信削除島のてっぺんまでたがやしたじだいには、一体何人の人が住んでいたのでしょうか?
島暮らしは安全で良かった時代があったと思います。
その時代には戻れませんが、見てみたいですね。
今の人が「厳しい暮らしだっただろう」と云うのは大きな間違いだと思います。病気、風土病、避けられない事態はあっただろうが、暮らしには悲壮感も飢餓感も窮乏もなかったのではないだろうか。助け合う意外に生きる術が無いのだとしたら人は何を成すのでしょう。お互いを気遣い合いながら分け合いながら生きていくしかないのでは、島の暮らしを見る事は無いですが、フェリーが届けてくれる郵便物を受け取りに来た郵便局のお姉さんがフェリーの綱取りをするのを見ると「これが島暮し」だと思います。自分たちの暮らしを大事にする、これを見ている人もいると云う事でしょう
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